昭和41年06月27日 夜の御理解
私どもの人生が、有難いとか、勿体ないとか、又は合い済みませんとかと、言う様な一つの信心モードで、過ごしていけれるとう言う事が、その人の人生を変える、と言うかその運命を変えると言うか、そういうおかげを頂けて行く事に、大変な大きなつながりを持っておるということを、皆はそれを知っておるだろうかと私は思う。果たして有難いとか勿体ないとか、相すまん相済みませんとかと、と言う様なものが私共の心の中から、実感されておる日々であろうかと。
それがなかったら信心頂いておる値打ちは差程にない事になる。本当に有難い一日であったと。本当に勿体ない一日であったと、本当に相すまん事であったと、と言う風にですねどうでしょうか、毎日そう言う様な雰囲気の中に、一日終わらせて頂きよるでしょうか。今日の正教さん、朝の御祈念が済んだ後に、先生また昨日失敗した事がございますと。それで今日一日断食のおかげを頂きます、と言うお届けをしよる。この人は何か自分の心に、誓うておる事が敗れたり失敗すると、すぐその断食をするんですね。
私はそれを、ほんとに有難いことだと、まぁ奨励する訳じゃないですけれども、それが時には厳しい、修行になったりする事もある。この頃三十何時間をようして、熊本に歩いて帰ったのも、やはりある時のあることが出来なかったお詫びの印に、どうでも歩いて帰らせて頂くとこう。もうほんとに話を聞いてみますと、八女あたりまではどうやらこうやら歩いたそうですけれどもね、あれから先はマメが出来て歩かれなかったと、だから足をこのように丸くして歩いたち。
だからあと、十時間とかかってるわけです。なかなか今の若い方達に出来る事じゃないと思うんですね。ところが夕方から熱発して、何か昨日、近所の同じ学生会の、友達の人の家に、( ? )に行ったらしい。でもう帽子もかぶらんでその、行ってるもんですから、病名を言うなら日射病か何かでしょう。大変高熱でまあ冷蔵庫の氷足りませんから、氷を買いに走ったりなんかして、まぁしておる訳でございますけども、私信心にはね、この二つがなかならければいけない。ね。
この二つと言うのは、神様が例えば求めたまう修行。神様が求めたもう修行を、その元気な心で、合掌して受けていこうと言う態度。ね、そこには不平不足があってはならない。それを受けきって行こうというと同時にです、私が例えば自分と言う者が分かって来る。自分の汚さが分かって来る。見苦しさが分かって来る。神様がお嫌いになるだろうと思う事を又やってのけた。そのお詫びの印に例えば断食をする。例えばそう言う様な二つが、二つの修行があいまって出来ていかなきゃいけん。神様が求めたまう。
例えば今日のんならその熱発。これは神様が言わばさしなさる修行。断食は自分の、お粗末後無礼を気づいた時に、お詫びの印に断食でもしなければおられないというそれ。この二つの修行がです本気でなされる時に、必ず有難い勿体ない相すませんと言う信心の、まぁ信心をしなければ頂けない、独特のそういう雰囲気というものが、私又は私の周辺に漂うて来るそういう私は生活。今日正教さんの事をお願いさせて貰いよりましたらね。あの野ごぼうと言うですかね。あの私が自然との対決にと言うときに。
対決というお知らせを頂くときにあの、今あるでしょ、野原にこう私共ひっきりごんぼうと言いよった。こう野ごぼうとも言うでしょう確か。あれとあのドクダミって言う草が今ございますでしょう。ここ辺では(たわのしにかけ?)っち言う。その二つを頂いた。ね、勿論その自然との対決と言う事が、今日の日射病であろう。そのドクダミのお印が、言わば自分の汚さ見苦しさを感じたときに、それを変じて薬にしていくと言う訳なんです。そこに修行させて頂いてから、そのお詫びの印に断食をする。
そう言う様なものがです、二つあいまっておかげを頂いていく時に、力と内容がいよいよ深いものになって来る。そこから深い意味での有難い勿体ない、又は相すまんというものが生まれてくると私は思うんですね。どうでしょうか皆さん、本当に信心頂いておっても、頂いていなくても同じ。ただ拝みよるだけ。有難いも勿体ない、も相済まんもないような一日であったらです、ほんとにそれはもう、こんな馬鹿らしい話はない。これだけの信心を頂いておって、もしそれだけであったらもうほんとに相済まん。
今日、内田さんが、今朝方からお知らせを頂いておられるのに、3本の御神酒を、お燗しよるところを頂いた。どう言う様な事でしょうかと。まぁそれは内田さんあなた、しげ子さん、娘達のことでしょうと。信心させて貰いよるから、有難き勿体なきが、ほんとにということは有難いのだけれども、それを自分の感情で燗を付け過ぎる、燗を上げ過ぎる。とすっとそれが、折角のあたらお神酒が、お酒になってしまう。
お酒になったらね、お酒になったら、良い機嫌だけならいいけど酔狂が出るようになる。そんなことじゃ勿体ないじゃないか。もうほんとに神様のそうした、直接のお知らせに対してもです、ほんとに噛んで含めるように、教えておられるというね。例えば3人のうちの、どれかがです、一人が燗が上がるぐらいのことならば、2人の者が、それをカバーしていっきると。三人がが一緒に燗をつけるもんだから、ね。
折角の信心しておるけども、信心の値打ちは一つもないことになってくる。燗が上がってくるのじゃ。かんがたってくるのじゃ。人が燗が、あらちょっと今日は燗が付き過ぎてござるばい。と思うたらこっちひやり有難き勿体なきの、お神酒でいきゃいいんだけれど、三人なら燗が付き過ぎると言う訳なんだ。ね、お互いの場合だってもそれを一つ、本当に思うてみなければ、折角のあれがお酒を御神酒を、お酒にしてしまう様な事であっては詰らんでしょうが。
為に只今申します様に主人が求めたまう修行と、又は自分から進んでさせて貰うその修行と。為には自分というものをギリギリ、見極めさせて頂くとです。相済まんほんとにこの様な私である事の、お詫びの印にそれが出来ると。それがもう敢然と出来る。そこからいよいよ神様を分かる事が出来る。いわゆる有難い意味での、言わば人生が有難いものに塗り変えられいく。
どうでしょうか皆さんお詫びの印に修行が出来よるでしょうか。自然との対決において、それに敢然として打ち向かうておるでしょうか。でなかったら何時迄経ってもです、口では有難いだの、勿体ないだのと言うとるけれども、有難いも勿体ないもない証拠に。いつもやはり燗が付き過ぎとると言った様な事に、なるんじゃないでしょうか。信心を頂いておる値打ちはそこだと、私は思うんですよね。
どうぞ。